気になったニュース>「女」ではなく「女優」として生きた…なぜ、大原麗子は孤独死を迎えたのか?

高校生の時に雑居時代の大原麗子さんに魅せられて、一時は、ペンネームを「大原麗子」にしていたこともありました。

2009年8月、突如、報じられた女優・大原麗子さんの孤独死。

発見されたときには、すでに死後3日経っていた。

【画像】セリフの修正がびっしり!完璧な演技のこだわった大原麗子さんの台本

6月20日放送の「直撃!シンソウ坂上」(フジテレビ系)では、大原さんの死から10年が経った今、孤独死へと至った数々の真相と激動の人生を振り返った。

「あの人ほど可愛い人はいない」

1964年にNHKドラマ「幸福試験」でデビューした大原麗子さん。

1965年には高倉健さん主演の映画「網走番外地」でヒロインを務め、渥美清さん主演の映画「男はつらいよ」など多くの作品に出演。さらに、1980年から10年にわたり放送されたお酒のCMで演じた、“勝ち気でキュートな和服美人”は大原さんのイメージそのものだった。

今回、番組MCの坂上忍は、大原さんを誰よりも知る女優・浅丘ルリ子さんにインタビュー。大原さんに姉と慕われ、30年以上を共に過ごした浅丘さん。これまで口を開いてこなかった浅丘さんが、大原さんへの思いを打ち明けた。

大原さんの死から10年が経過したことで、「麗子のことをちょっと遠くから見られるようになった」と浅丘さんは静かに語り始めた。

大原さんと家族ぐるみの付き合いをしていたという浅丘さん。「(麗子が)『ねぇ、私を5番目の妹にして』と言って。そして、麗子はうちの両親と4歳上の姉も看取ってくれました」と、大原さんとの深い絆を明かした。

一度も大原さんと会ったことがないという坂上が、彼女について浅丘さんに問うと、「あの人ほど可愛い人はいなかった。あの顔とあの声と独特のものを持っていらして」と懐かしそうに振り返った。

離婚の会見で“家庭に男は2人いらない”

大原さんは1973年、当時はまだ新人だった俳優・渡瀬恒彦さんと結婚。

夫婦で出演した番組では、司会者から「渡瀬さんに注文はありますか?」と聞かれた大原さんは「あるけど、ここじゃ言わない」と無邪気な笑顔を見せていた。また、子どもについて聞かれた大原さんは「できたら決める。(仕事は)休まなきゃならないでしょうけど、パッと辞められるか分からない。好きですからね、仕事も」と明かしている。

しかし、約4年半後に2人は離婚、その2年後の1980年に歌手の森進一さんと再婚した。だが、この結婚生活も長くは続かず、4年後に2度目の離婚をする。

大原さんの2度の結婚について浅丘さんは、今回のインタビューの前日に、森さんに電話して直接聞いた話を明かしてくれた。

「麗子はとにかく、何でも物事を一生懸命やる。でも、その一生懸命さが裏目に出る時がある。それでちょっと誤解されたりすることが何回もあった。だから、私が麗子の家に行っても、麗子はうるさいんです。(森さんは)挨拶したって言っているのに『浅丘さんが来たんだから、ご挨拶して』『言うことがあるでしょ、ほら』と。そういうのがきっと重かった…。もちろん、優しい、可愛い、いっぱいありますけど、いろんな面がありすぎて、きっと重くなっちゃったのかな」

そんな大原さんは、当時森さんとの離婚の理由について、会見でこう語っている。

「私のワガママからこうなりました。一寛(森進一)さんが仕事を辞めてほしいという気持ちがあったということと、私が辞められないということ。私が仕事をしていることで、かなり我慢をさせていた。私は仕事と家庭は比較できないものだと思うんです。仕事は私の生きがいの一つです。やっぱり、私が男なんですね。女優の仕事を持っているということ、だから、“家庭に男が2人いた”ということだと思います」

大原さんが発した言葉は、当時“家庭に男は2人いらない”と広がったが、この言葉の裏側について大原さんの実の弟・政光さんは、その言葉に込められた大原さんの覚悟や、仕事のために中絶していたという衝撃的な過去を明かした。

森さんとの結婚から2年後、大原さんは子どもを授かったが、その頃、連続ドラマの仕事を抱えていたため、政光さんのもとに「子どもを堕ろしたいから、医者を紹介してほしい」と相談に訪れたという。中絶することに大反対し「産んだら?」と強く主張した政光さんに対し、大原さんは「このまま妊娠を続けるとお腹が大きくなって、撮り直しになるから迷惑はかけられない」と話したという。

そして、政光さんは「その時に姉は女を捨てて、男として仕事一本で生きていこうと。それがあの会見の時の“家庭に男は2人いらない”になった。あそこでもし、子どもを産んで生活をしていたら、また違う人生があったかもしれないですね」と語った。

大原さんが中絶をしたという話を初めて聞いたという浅丘さんは思わず絶句。だが、「女優としてよく分かる。私は女優を続けたいと思っているし、これしかやることありません。家のことをやれと言われても何もできませんし。麗子は女優を取ったんですね」と目を潤ませた。

ギラン・バレー症候群を克服し、女優復帰するが…

「女」としてではなく、「女優」として生きる決断をした大原さん。しかし大原さんはギラン・バレー症候群という病に直面していた。

ギラン・バレー症候群とは、免疫システムの不具合から手足が麻痺したり、歩行や呼吸が困難になり、最悪の場合、死に至ることもあるという病。

プロとしての責任感ゆえ、周囲には病気のことを隠していたという大原さんだが、1年間の休養を経て、ギラン・バレー症候群を克服し、女優として現場復帰を果たした。

その後も国民的映画「男はつらいよ」のヒロインに。テレビタレントイメージ調査では女性部門で13回も1位になるいう華々しい記録を打ち立て、東京・世田谷区に3億円の豪邸を建築。1989年には主演を務めたNHK大河ドラマ「春日局」で、平均視聴率が30%を超えるなど、トップ女優として順風満帆な日々を送っていた。

しかし、50代を迎えた頃、時代の流れと共に主演級のオファーは減り始め、納得のいかない仕事はすべて拒否。撮影現場でも完璧な演技にこだわるあまり、脚本にダメ出しをするなど、やがて業界内では“扱いづらい”女優というイメージがつき、徐々に仕事が減り始める。

大原さんが当時、直しを入れた実際の台本を見ると、残っていた台本全てに書き直しとも言えるレベルの細かいセリフの修正がびっしりと入っていた。

演技に対する信念を曲げない大原さんを浅丘さんは「『お願いだから、いろいろ考えなさい。全部思ったことを言っちゃダメ。一回胸に納めて、それで言っても良いか悪いか、整理してから言いな』と言ったんです」と指摘をしたこともあるという。

「闇整形」の失敗、病気の再発、母親の介護…孤独へ

いくら仕事が減っても決して、女優としてのプライドを貫いた大原さん。 しかし、「老い」の現実を感じていた大原さんは53歳の時に、「闇整形」という誤った決断をしてしまう。

もともと左目の一重まぶたにコンプレックを持っていた大原さんは、それを二重にする整形手術を行う。だが、整形後に雑菌が入ったまぶたは腫れ上がり、手術は失敗。出演が決定していた映画も降板するしかなかった。

これを境に仕事は完全になくなり、4年の間、収入はほぼゼロに。大原さんの周りにいた人たちも離れていってしまった。

そんな時、追い打ちをかけるように、ギラン・バレー症候群の再発という、さらなるどん底へと突き落とす悲劇が襲う。その頃には、母親の介護ものしかかり、仕事どころか外出することすらままならない状態に。

やがて、躁鬱病を患い複数の薬を大量摂取。薬に頼れば頼るほど心と体がむしばまれる悪循環に陥り、自宅に引きこもる生活が続いた。 精神的に追い詰められていったことで、時間を問わず友人や仕事関係者に電話をかけ、何の脈絡もなく1、2時間にわたり悪態をつくようになり、当然、周囲の人間は大原さんと距離を置くようになった。

そんな時、芸能リポーターの前田忠明さんは大原さんから突然呼び出され、彼女の不安定な精神状態を目の当たりにしたという。前田さんは「(取材に行くと)突然大きい声で『私が今、どういう状況か分かっているの?』と。お酒を飲んでいるのかと思ったんですけど、痛み止めで朦朧としていると。こんなことを言う人だったかと混乱しました」と振り返った。

死の9ヵ月前に、前田さんが取材した大原さんは、母親への介護疲れも重なってか、支離滅裂な受け答えに終始。精神状態が限界にきていることをうかがわせるものだった。

こうして芸能界で孤立を深めた大原さんに救いの手を差し伸べたのは、最初の夫・渡瀬さん。自身が主演を務めるドラマ「十津川警部シリーズ」で渡瀬さんが大原さんをキャスティングし、元夫婦で共演したこの作品が大原さんの遺作となったのだ。

浅丘ルリ子が抱える後悔

2009年8月6日、都内の自宅で亡くなっている大原さんが発見された。孤独死だった。

発見の3日前、8月3日に亡くなった大原さんの死因は、脳内出血だった。第一発見者は、大原さんと連絡が取れないため、様子を見に訪れた政光さん。

「普段開いていない鍵が開いていて。そこから入って2階まで駆け上がったんですけど、もう亡くなっていました。薄く目が開いていたので、まだ生きているんじゃないかと警察の方に言ったんですけど、『もう亡くなっています』と言われました」と政光さんは明かした。

最後に、浅丘さんは大原さんへこんな弔辞を送った。

「麗子へ
貴女とのお付き合いもTVドラマの共演がきっかけで三十三年位になります。そんな貴女ともここ数年、何度も云い合いをし喧嘩になって距離を置いた時期がありました。長々と人様や自分の不平不満を訴えるだけの一方的な長電話、こんな事が何回も重なるとあなたの声を聴いていることさえつらくて、もう麗子からの電話には出たくないと思ったものです。

何故あなたは回りの人をこんなに混乱させたまま逝ってしまったのでしょうか?何を聞いても答えてくれない貴女の遺影を見つめている内に写真の貴女の顔が一瞬くしゃくしゃとゆがんで、まるで泣いているように見えました。その時、貴女の抱えていた病気と、独りでいる淋しさがどんどん貴女の心をかたくなにしていったのだと今さらながら解ったような気がします。

貴女がどんなに私のことを拒否しても姉として貴女をちゃんと受け止めてあげるべきだったのです。うしろからやさしく背中をさすってあげればよかったのに本当にごめんね麗子!今、私は貴女の溢れる程の優しさ、賢さ、可愛らしさだけを想い出しています 」


(「直撃!シンソウ坂上」毎週木曜 夜9:00~9:54)

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