知らないのに批判ばかりはいけないですね>不遇 の天才たち、手洗いを勧めた医師とコロナウイル スの発見者【感染症、歴史の教訓】

Snagit1_31.png

news.yahoo.co.jp/articles/fa5dec35445b21d7eb6956fd509f91378bb5cf37?page=1

natgeo.nikkeibp.co.jp/

天動説は、今では当たり前のことですが、「それでも地球は回っている」
このイタリアの天文学者ガリレオ・ガリレイの有名な言葉は、1600年代のもので、時代的には、そうかなぁ、と思います。

今では、マスクや手洗いは、感染予防で当たり前と思っていますが、この記事を読んでびっくりしたのは、今では日常的なこの行為が、最近までは、地動説のように、当たり前ではなかった、ということでした。

何が正しかったのかは、歴史が証明してくれますが、今回の森さんのオリンピックを開催する、という発言も、もしかして、奇跡的にコロナが終息して、オリンピックが開催された、というときに、今反対している人は批判的な人は、手のひら返しなんでしょ。

天皇一家の結婚問題も、彼氏が弁護士で大成功したら、手のひら返しが起こるかもしれない、などと思ったりします。

ここで記録しているのも、そういう過去と現在の発言者の発言内容の違いを残したいからですが、万事丸く納まってほしいものだと思います。

新型コロナウイルス感染症に関連する、報われなかった過去の偉業から

ハンガリー人医師ゼンメルワイス・イグナーツは消毒の先駆者だったが、手洗いを医療の改善と結びつけて説いたことで嘲笑された。(PHOTOGRAPH BY GL ARCHIVE, ALAMY)

 中国武漢で謎の肺炎の集団感染が報告されてから1年あまり。コロナウイルスの素早い特定に始まり、次々とワクチンが開発されるなど、未知の病原体に挑む研究や対策の速さには驚くべきものがある。

ギャラリー:ペストからコロナまで【感染症、歴史の教訓】画像20点

 それもこれも、過去からの積み重ねがあったおかげだ。ただし、それらすべてが当初から正しく評価されたわけではない。ここでは、新型コロナウイルス感染症に関係する重要な発見をしたにもかかわらず、不遇だった2人の研究者を紹介しよう。

 1人目は、手洗いの大切さを発見した“消毒の父”ことハンガリー人の医師ゼンメルワイスだ。手洗いに感染症を防ぐ大きな効果があることは、いまや誰でも知っている。だが、このアドバイスは、19世紀にはむしろ非常識ですらあった。

 1840年代のヨーロッパでは、子どもを産んだ母親が、産褥(さんじょく)熱と呼ばれる病気で亡くなるケースが多かった。ハンガリー人の医師、ゼンメルワイス(センメルヴェイス)・イグナーツはこの問題に関心を持ち、原因の調査に乗り出した。
助産師と医師で患者の死亡率に奇妙な差

 ゼンメルワイスが勤めていたオーストリアのウィーン総合病院には、ふたつの産科病棟があった。一方は男性医師たちが、他方は女性助産師たちが担当していた。ゼンメルワイスは、助産師が赤ちゃんを取り上げたときに、産褥熱による母親の死亡率が半分ほどであることに気が付いた。

 この現象を説明するため、多くの仮説を検証した結果、ゼンメルワイスは原因を発見する。なんと解剖用の死体だった。

 医師と医学生は午前中に解剖実習を行い、午後に産科病棟での診察やお産に対応していた。一方で、助産師たちは解剖用の死体と接触する機会はなく、産科病棟でのみ働いていたのだ。

 当時は医師が診察の前に手を洗う習慣はなく、ゼンメルワイスは「死体の微粒子」が医師や学生を通じて母親たちに移されているのではないかとの仮説を立てた。病原菌説はまだ提唱され始めたばかりであり、ゼンメルワイスは問題の物質を「腐敗性動物性有機物」と呼んだ。医師との接触で、患者たちにこうした物質が移り、産褥熱で亡くなっているというわけだ。

医学界からバッシング

画家ロバート・トームが描いたウィーン総合病院でのワンシーン。ゼンメルワイス(中央)が医師たちの診察前の手洗いを見届けている。(PHOTOGRAPH BY LOOK AND LEARN, BRIDGEMAN IMAGES)

 1847年、ゼンメルワイスは学生や部下の医師たちに手洗いを義務付けた。部下たちが自分の手や道具を洗うようになると、医師たちが担当する産科病棟での死亡率は大きく低下した。

 1850年の春、ゼンメルワイスは権威あるウィーン医学会で講演し、大勢の医師の前で手洗いの効果を説いた。しかし、彼の説は当時の医学の常識に真っ向から反していたため、医学界から拒絶され、その手法も論理も非難されてしまう。

 歴史学者たちは、ゼンメルワイスの説が患者の死を医師のせいにしたことも拒絶された理由だろうと考えている。産科病棟での死亡率を大きく低下させたにもかかわらず、ウィーン総合病院は手洗いの義務付けをやめてしまった。

 その後の年月は、ゼンメルワイスにとって困難なものだった。失意のうちにウィーンを去った彼は、ハンガリーのペスト(現ブダペスト)で再び産科病棟に勤める。ここでも彼は手洗いを励行し、ウィーンと同じように母親たちの死亡率を劇的に低下させた。しかし、どんなに多くの命を救っても、彼の理論は認められなかった。

 ゼンメルワイスは1858年と1860年に手洗いについての論文を書き、その翌年には本を出版している。だが、彼の理論は医学界の主流派に受け入れられなかったどころか、産褥熱の原因は別にあるとする医師たちから大きな批判を浴びてしまう。

 数年後、ゼンメルワイスの健康が悪化し始めた。梅毒またはアルツハイマー型認知症を患っていたとも言われている。精神病院に送られたゼンメルワイスはほどなくして亡くなった。

 彼の死から2年経った1867年、英スコットランド人の外科医ジョゼフ・リスターもまた、感染症の予防策として手や手術道具の消毒を推奨した。彼を批判する者もいないわけではなかったが、1870年代には、手術前に手を洗う習慣を取り入れる医師が増え始める。

 ゼンメルワイスの功績も次第に認められるようになり、彼の論文は、のちにルイ・パスツールの病原菌説につながり、患者の治療法や、病気の原因および感染経路の調査方法を変えていった。

 医師がこまめに手を洗うようになったのは1870年代のことだが、日常的な手洗いの重要性が広く知られるようになったのはそれから100年以上も経ってからだ。そして1969年、ブダペスト医科大学はその名をゼンメルワイス大学と改称した。清潔さが医療を改善すると粘り強く説いたものの、報われなかった彼に敬意を表して。

コロナウイルス発見の物語、却下された彼女の論文

1963年、電子顕微鏡を操作する科学者のジューン・アルメイダ。1年後、彼女は自らが開発した技術を用いてコロナウイルスを発見していた。(PHOTOGRAPH BY NORMAN JAMES, TORONTO STAR/GETTY)

 1966年にコロナウイルスを発見したジューン・アルメイダ女史も、不遇をかこった研究者の1人だ。画期的な顕微鏡技術を開発し、その前にコロナウイルスを報告していたにもかかわらず、彼女の論文はひどい誤りと判断され却下されていた。

 英国スコットランドに生まれたアルメイダは、バスの運転手をしていた父親らと共に貸アパートに暮らしていた。学業に優れ、大学進学を望んでいたものの、家計にはその余裕がなかったため16歳で学校を中退。正式な学校教育を終えないまま、グラスゴー王立診療所で一介の検査技師として働き始め、顕微鏡を使って組織サンプルの分析を行うようになる。

 その後、ロンドンの聖バーソロミュー病院で同様の職を得て、後に夫となるベネズエラ人アーティスト、エンリケス・アルメイダと出会った。2人はカナダへ移住し、彼女はトロントにあるオンタリオがん研究所で電子顕微鏡を使う職に就く。

 この職場で彼女は新たな顕微鏡技術を開発し、まだだれも見たことがなかったウイルスの構造に関する論文を複数発表する。アルメイダが開発した顕微鏡技術は、シンプルでありながら、ウイルス学の分野においては革命的だった。

 電子顕微鏡で難しいのは、見ているものがウイルスなのか、細胞なのか、それともほかの何かなのかを見極めることだ。この問題を解決する手がかりとして、アルメイダは、ウイルス感染歴がある人から採取した抗体を使う方法を思いつく。

 アルメイダが抗体でコーティングした小さな粒子を試料に加えてみたところ、その粒子がウイルスの周りに集まって、ウイルスがあることを知らせてくれた。この技術のおかげで、臨床医が電子顕微鏡を使って、患者のウイルス感染を診断できるようになった。
「質の低いインフルエンザ」と査読者が誤解

 自らが開発した顕微鏡技術が広く認められつつある頃、アルメイダはロンドンに戻り、聖トーマス病院医学校に職を得た。そして1964年、アルメイダ氏のところに、風邪研究所を監督していたデビッド・ティレル博士から連絡が入る。

 ティレルのチームは、病気の少年からインフルエンザのようなウイルスのサンプルを採取していたが、培養がうまくいかずに行き詰まっていた。従来の手法が通用しないことから、彼らはそれがまったく新しいタイプのウイルスなのではないかと考え始めていた。

 選択肢に窮したティレルは、アルメイダにサンプルを送り、あなたの技術でウイルスを特定してほしいと伝えた。手元の資材が限られていたにもかかわらず、アルメイダは、ティレル氏の期待以上の成果を上げる。

 アルメイダはウイルスの鮮明な画像を作成しただけでなく、以前の研究で類似のウイルスをふたつ見たことを覚えていた。ひとつはニワトリの気管支炎、もうひとつはネズミの肝炎の研究だった。彼女はそのどちらについても論文を書いていたが、いずれも却下されていた。画像がインフルエンザウイルスの質の低い写真に過ぎないと査読者に判断されていたのだ。

 ティレルとアルメイダらが顔を合わせて研究成果について議論をしている最中、この新たなウイルス群をなんと呼ぶべきかという話になった。画像をひと通り眺めた後、彼らは、丸い光の輪に包まれているかのようなその構造に着想を得て、ラテン語で冠を意味する「コロナ」という言葉を選んだ。「コロナウイルス」誕生の瞬間だ。驚くべきことに、このときアルメイダはまだ34歳だった。

久しく忘れられていた偉業

 アルメイダはウイルス学者としては1985年に引退したものの、その後も好奇心旺盛に活動を続けた。一時は聖トーマス病院にアドバイザーとして復帰し、後天性免疫不全症候群(AIDS)を引き起こすHIVウイルスをいち早く高画質画像でとらえ、発表することに尽力した後、2007年に77歳で亡くなった。

 聖トーマス病院でアルメイダと共に働いた英アバディーン大学の細菌学名誉教授、ヒュー・ペニントン氏は、彼女は自分にとって素晴らしい指導者であったと述べている。

「彼女は間違いなく、同世代のスコットランド人科学者の中でも傑出した人物ですが、残念ながらほとんど顧みられることがありませんでした」。英ヘラルド紙の取材に、ペニントン氏はそう答えている。「しかし皮肉なことに、今回の新型コロナ感染症の流行によって、アルメイダ氏の業績が再び脚光を浴びることになったのです」

 アルメイダが開発した技術は、迅速かつ的確にウイルスを同定するために現在も使われている。彼女が初めて電子顕微鏡でコロナウイルスを目にしてから57年がたった今、その業績はこれまで以上に重要性を増している。

この記事はナショナル ジオグラフィック日本版とYahoo!ニュースによる連携企画記事です。世界のニュースを独自の視点でお伝えします。

文=Nina Strochlic、YDNEY COMBS/編=Amy Briggs/訳=桜木敬子、北村京子

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする