「全部焼け焦げて、死体が…」首里城の地下に残 された“司令部豪” 元鉄血勤皇隊が語る沖縄戦の悲劇

6月12日、火災後初めて一般公開された首里城。
この敷地内にあり、ひっそりと地下に存在しているのが第32軍の司令部壕。
75年前の沖縄戦を語るうえで欠かせない戦跡で、壕の公開を望む声が高まっているが、崩落の危険などがあるとして、実現されていない。

【画像】沖縄戦の記憶…命がけで掘った壕(ごう)

当時、この壕の整備にあたったのは10代半ばの少年たちで、作業に携わった元鉄血勤皇隊の男性は「戦争の実相を伝えるために、壕を公開してほしい」と語る。

沖縄・北谷町に住む濱崎清昌さん(90)。

体には、戦場で負った傷が今も生々しく残る。

濱崎清昌さん:
こっちやられているから。骨まで

沖縄戦…首里城地下の司令部壕 日本軍の拠点に
沖縄戦が始まる1945年、当時16歳で師範学校の予科2年生だった濱崎清昌さんは、修了式の場で鉄血勤皇隊へ入隊を命じられた。

濱崎清昌さん:
天皇陛下のために、御国のために軍に徴集されると。もうびっくりしたよ

教員を志した濱崎さんの学校生活に、戦争は暗い影を落とした。

日本軍は、南西諸島防衛を目的に、沖縄に第32軍を配備。
その拠点となったのは首里城の地下に整備された司令部壕だった。

アメリカ軍が沖縄に上陸した1945年の3月、濱崎さんは「築城隊」へ配属され、今の首里・金城町から「第五坑道」で掘り進め、昼夜を問わずアメリカ軍の艦砲が続く中、命がけで作業にあたった。

アメリカ軍は西原、浦添を陥落した5月中旬、司令部壕がある首里へ侵攻。
艦砲がさらに激しさを増し、この頃、濱崎さんは初めて同級生を失う。

濱崎清昌さん:
同級生にね、江田君といって、(壕の)空気を抜くための空気抜きを掘らないといけないでしょ。あれを作っている時に、(艦砲が)直撃

戦禍拡大を招いた「南部撤退」…住民をも巻き込んだ悲劇
壊滅的な打撃を受けた第32軍は、5月22日 司令部壕を放棄し、南部へ撤退することを決める。

沖縄戦を研究する吉浜忍さんは、この「南部撤退」の決定こそが県民の犠牲を増幅させたと指摘する。

県史編集委員会 吉浜忍会長:
(5月中旬には)兵力が3分の2くらい失われているわけです。通常だったら降伏、負けなんです。ところがそうじゃなくて、南部へ撤退する。そういう軍民混在の状態で1カ月間、南部戦線が戦われたということは、そこで色んな悲劇が起こってくるわけです

沖縄での地上戦は、本土決戦に備えた「持久戦」と位置づけられ、第32軍にとってはいかに時間を稼ぐかが至上命題だった。

しかし、軍の撤退により戦場が南部に移ることで、避難をしていた多くの住民が戦闘に巻き込まれることは避けられない状況だった。

県史編集委員会 吉浜忍会長:
大本営にとっては、よく戦った持久戦ですから、『1カ月間もプラスアルファ持ったよ』ということで。逆に言うと、それによって沖縄の人たちが多く死んでいったという

糸満の摩文仁へ移動した濱崎さん、そこで目にした惨状は、今でも鮮明に記憶に刻まれている。

濱崎清昌さん:
ガソリンの缶が転がって、全部焼け焦げて、死体やらいっぱいあるわけよね

撤退から約1カ月…それでもなお、日本軍の勝利を信じていた濱崎さんにとって、思いもよらない命令が下る。

濱崎清昌さん:
6月19日をもって、鉄血勤皇隊は解散すると。その代わりにね、今まで教えられてきたように、絶対に死んではいかん。出来る限り生き延びなさいと

軍の命令を伝えたのは、師範学校の野田貞夫校長だった。

濱崎清昌さん:
命が長らえるのであれば、その時は、ちゃんと今の状態から立派な日本国民を作るように頑張ってちょうだいと
news.yahoo.co.jp/articles/322a3ef20b7c11c90f7d8ea7c1e6ca9b354d2adb
摩文仁を離れ、行くあてもないまま、さまよい続けた濱崎さん。
茂みに身を隠していた時、アメリカ軍に発見されてしまう。

濱崎清昌さん:
僕がちょうど(茂みの)中に入りかけたと同時に、『見られた!』と(声が上がって)。ちぶる(頭)何かでバンって殴られて、意識もうろうとして

襲撃に遭い、一緒にいた上級生と同級生は即死、濱崎さんも生死をさまよった。

濱崎清昌さん:
そのまま死んだら、結局はおしまいでしょ。それでも捕まえられたら殺されると言うし、(死ぬ前に)水を飲もうと決断したよ

「死ぬ前に水を飲もう」と外に出た濱崎さんは、アメリカ軍の捕虜として捕らわれる。
今も、その時に負った頭と足の傷は、生々しく残る。

沖縄戦の実相を後世に伝えるため「壕を公開すべき」
本土上陸の時間稼ぎとして「持久戦」を展開し、多くの犠牲を生むことになった「南部撤退」など沖縄戦における数々の指揮・命令が下された第32軍司令部壕。
濱崎さんは、75年前に起きた戦争の実相を後世に伝えるためにも、司令部壕を公開すべきと訴える。

濱崎清昌さん:
こういうふうにしか戦はしなかった。こんなことしか出来なかったということは、見せなきゃいけないんじゃないか

琉球王国時代の繁栄を象徴する首里城。
その地下には悲劇の歴史があることを、忘れてはいけない。

(沖縄テレビ)

沖縄テレビ

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