いい記事読ませてもらいました>フレンチのカリ スマ・三國清三シェフが味わった“人生初の挫折 ”「どんなに頑張っても…」

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30歳のときに東京・四ツ谷駅近くに「オテル・ドゥ・ミクニ」を開業し、日本を代表するフランス料理人として世界を股にかけて活躍している三國清三シェフ。札幌グランドホテルで料理人として修業をはじめ、18歳のときに札幌から手紙1通を手に、“料理の神様”と称される帝国ホテルの村上信夫料理長に会うために上京することに。
◆帝国ホテルで人生はじめての挫折を味わう

フレンチのカリスマ・三國清三シェフ。

三國さんが上京したのは1971年。オイルショックの影響を受け、帝国ホテルも希望退職者を募っている状況だったという。

「村上料理長のところに行って、紹介状を渡したんだけど、『話は聞いている。でも、今オイルショックで希望退職者を募っているんだ。

だから、いつ社員になれるのかわからないけど、厨房(ちゅうぼう)で洗い場をやって順番待ちをしろ』って言われて。僕は24番目だったんです。

今の帝国ホテルの『レ セゾン』。そこは当時『グリル』って言っていたんですよ。そこで次の日から洗い場を18歳から20歳までやっていたんです。洗い場だけ。

あっという間に2年が過ぎて、20歳の誕生日、8月10日に人生初の挫折(ざせつ)を味わったわけですよ。『どんなに頑張ってもダメなものはダメだ』って。

札幌を出るとき、みんなから『お前、行くなよ。お前みたいな田舎者が帝国ホテルに行ったって、東京の人は鬼しかいないし、米を食わせてくれないんだよ。売られるんだぞ、お前』って、本当に言われたんですよ。『絶対に無理だから』って。

それでも一生懸命頑張ってきたのに、『もうダメだ』って諦めて。でも、札幌グランドホテルにも帰れないし、12月になったらもう増毛に帰ろうと8月に決心したんですよ。

それで、もう『クソ!』と腹をくくって(笑)。帝国ホテルには18のレストランがあるんですけど、僕はパート扱いだったから、『お金はいらないから、僕のパートが終わったら18のレストランを回って洗い物をしてもいいですか?』って言って親方に頼んで。

洗い場は誰もやりたがらないから、喜んでやらせてくれました。帝国ホテルで働いた証(あかし)に、全部のレストランの鍋をピカピカにしてやろうと思って、毎日18のレストランを回って洗い場を全部やっていたんですよ。(そのとき、今の料理顧問・田中健一郎料理長は、コーヒーショップの見習いでした)

そうしたら、10月に村上料理長から呼ばれたんですよ。神様みたいな人だから、そうそう会えないしね。紹介状をもらって来ているわけだから、『12月いっぱいで辞めます』ってきちんと言わなくちゃいけないと思って料理長の部屋に行ったんですよ。

そうしたら、村上料理長から、『犬丸社長から帝国ホテルにいる料理人650人のなかから一番腕が良いやつをスイスのジュネーブにある日本大使館に年明けすぐに行かせてくれと言われて、君を推薦しておいたから、準備しなさい』って言われて。

僕はてっきり北海道に帰されると思っていたから驚きましたよ。まさか海外なんて思いもしなかったし、そういうつもりは全くなかったからね(笑)。

でも、そう言われた瞬間、パッと増毛の厳しい寒さが浮かんだのよ。増毛は日本海側だから、吹雪くと浜風で息が吸えない。本当にきついんですよ。だから吹雪になると、だいたい集団下校。道がなくなっちゃうから。

貧乏だったしね。だから3秒ですよ。『いやあ、海外なんて行ったことはないけど、増毛より良いべ』って思って、『はい!』って言った(笑)」

◆「余計なことをするな!」と先輩にボコボコにされ…

フレンチのカリスマ・三國清三シェフ。

18歳から20歳までいたものの、帝国ホテルでは料理を作る機会はほとんどなかったという。

「やれるチャンスがなかったですからね。僕がいた『グリル』というところは朝食もやっていて、キッチンが二つあるわけ。

当時、村上料理長は『NHKきょうの料理』という番組のレギュラーだったんですよ。

それで、村上料理長は全部自分で用意してくるんですよ。普通は部下に用意させたりするんだけど、村上料理長は全部自分で用意して、自分で冷蔵庫にしまっておくんです。

それは、村上料理長の信念として『NHKの仕事は個人的な仕事だから、スタッフにはやらせない。自分でやる』ということだったと思うんですけど、僕もヘルプだったから洗い場のものがなくなると暇じゃないですか。

それで、料理長の動きを見て、料理長が冷蔵庫のところに行くと、パッと先回りして材料をもっていって、『ハイ』って渡すと、『おー、ありがとう』って言ってくれるんですよ。

そうしたら先輩に呼ばれて裏でボッコボコですよ(笑)。『お前、余計なことをするんじゃねえ。村上料理長はそういうことが嫌いだから、自分でやっているんだ。我々もみんなそれかわかっている。だから、我々だって一切手伝いをしないのが流儀だ』って。

僕は、パッてもって行くと、料理長に『ありがとう』って言われるから、やってるんだけど、週にいっぺんぐらいやっていたかな?やるとまたボコボコにされるんだけど(笑)。殴られるのには慣れていたからね(笑)。

それで、あるとき、また料理長に魚をもって行ったら、そのときですよ、『ちょっと塩しておいて』って料理長に言われたので、僕がパパパッて塩して。さすがにそれから先輩もボコボコにはしなくなったけどね(笑)。

村上料理長が僕に指示を出すようになったので、もう何も言えないわけですよ。だんだん僕にそれを焼きなさいとかいろいろやらせてくれるようになったので。

そうやって少しお手伝いしてNHKの人と仲良くなって、『来週は何をやるんですか?』ってメニューを教えてもらって、自分で勉強しておいて、フライパンを出したりとか、冷蔵庫から食材を出したりとか、全部手伝って」

−すごい努力と行動力ですね−

「村上料理長は知っていたんじゃないかな。僕が洗い場しかできないっていう状況を。

だから、洗い場をやっていたときに、味を盗むわけですよ。下がってきた皿に残っているソースを舐めたりしてね。

先輩のなかには皿をもって来たときに、バーッと水で流してからよこしたり、石鹸水をバーッと付けて渡してよこしたりするんですよ、味を盗まれないように、味見できないようにね。

でも、優しい先輩は、ちゃんと皿をそのまま置いといてくれるんですよ。それで舐めてみたりとかね」

−結構すごい世界ですね。洗剤をかけて味見できないようにしたり−

「そりゃあそうですよ。自分の味を盗まれたくないからね。それはもうそういうものですよ。

村上料理長は全部知っていたと思う。それで大使館の料理長に推薦してくれて。

村上料理長も大使館の料理人をやったことがあるんですよ。村上料理長は帝国ホテルにいて大使館に行って、戻ったら料理長っていうエリートコース。でも、僕は社員じゃなかったから片道切符(笑)。

それで、村上料理長が僕におもしろいことを命令したんですよ。『三國君、いいかい。10年後は君たちの時代が来るから。必ず来るから10年は自己投資しなさい』って」

◆はじめての海外、20歳でジュネーブの日本大使館へ

フレンチのカリスマ・三國清三シェフ。

1973年、三國さんは英語もフランス語もわからないまま、ジュネーブにある日本大使館で料理長として働くことに。

「言葉もわからないし、行ったこともないところだけど、ジュネーブの空港に着いたとき、『やれるかもしれない』って思ったんですよ。

山があって、高いビルがないんですよ。それにまだ雪があったから、風景が北海道と一緒。それですごくホッとしたの。それはよく覚えている。『何とかなるかもしれない』って(笑)。

それで、着いてすぐ大使ご夫妻に呼ばれて『これから2年間よろしく頼むな』って言われたんですけど、出発前に村上料理長から大使のことは閣下とお呼びしなさいと言われていたので仰せの通り『はい、閣下』って言ったんですよ。

そうしたら大使と奥様がゲラゲラ笑い出して、『三國君、君はおもしろい子だね。戦争時代じゃないんだから、大使と呼びなさい』って言って、それで一気に打ち解けたわけ。村上料理長はそういう風になることがわかって『閣下』って言わせたんでしょうね」

三國さんがジュネーブに到着してから1週間後、大使就任の正式晩餐会をすることに。当時はまだソ連とアメリカが冷戦状態で、一緒のテーブルにつけなかったため、2回晩餐会を行うことになったという。

「アメリカ関係とソ連関係に分けて2回、大使夫妻を入れてそれぞれ6組12人を2回。『はい』って言ったけど、『晩餐会』って聞いたことがないわけですよ。『何だべ?』って(笑)。

それで通訳とかしてくれる侍従の山田さんに『晩餐会って何だい?』って聞いたら『えっ?』って顔をしていたけど『フルコースです』って言うわけ(笑)。まあ、フルコースって言われるとわかるけどさ、晩餐会って経験したことがないじゃない?

一週間後には、まずアメリカ大使ご夫妻とアメリカ系の国のゲストが来るわけだからなんとかしなきゃいけない。

それで、すぐに山田さんに、アメリカ大使ご夫妻がプライベートで行くフレンチレストランを調べてもらったら、『リヨンドール』という店だったんですよ。

当時はまだミシュランの三ツ星がなくて、『リヨンドール』は二ツ星の有名なお店なんですけど、週末はアメリカ大使ご夫妻がプライベートでいつも行っているということがわかって。

それで僕は、大使夫妻に嘘をついて3日間だけ休みをもらって、翌日から3日間、『日本大使館の料理長が研修に行きたい』って山田さんに申し込んでもらったんですよ。

そうしたら、『リヨンドール』も大使館は良いお客だから、『それは光栄です』って言って、研修に行って、アメリカ大使ご夫妻がいつも食べているコースを教えてもらって。

メインはラパンという、うさぎのマスタードソースだったんですよ。それはいまだに覚えているんだけど、あとは何だったのか、あまり覚えてない(笑)。

それで3日間でそのコースを全部教えてもらったわけ。前菜からデザートまで、アメリカ大使の好みから食材の仕入れ先まで全部教えてもらって、その料理をお出ししたら晩餐会は大成功。とにかくアメリカ大使ご夫妻が大絶賛だったんですよ。

アメリカ大使が、『どうして君のところの料理長は僕の好みを知ってるんだ?』って言われたって(笑)。うちの大使が厨房に来て『大変喜ばれましたよ』と。

それで、休みのたびに『リヨンドール』へ行って、ネタを仕入れてね。でも、一通り覚えると、つまんなくなるわけですよ。それで今度はジュネーブの『リッチモンド』という、有名な五ツ星ホテルに研修に行くわけ。

でも、イマイチということはないけど、『ん?』っていう感じで。そうしたら、山田さんが、知り合いのグルメの人が、ローザンヌのクリシエにある店に行ったらすごく良かったって言っていたって聞いたんですよ。

それでピーンときて。スイス初の三ツ星シェフ(その当時は星なし)となったフレディ・ジラルデさんだったんです」

才能に甘んじることなく、人の何倍もの努力と驚くべき行動力で料理人としての道を切り開いてきた三國さん。次回後編では、20世紀における最高のフランス料理人のひとりとして知られるジラルデさんへ直談判、「オテル・ドゥ・ミクニ」開業、ノートルダム大聖堂など数々の活動についても紹介。(津島令子)

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