【今夜のどうする家康】残り6回 第43話「関ヶ原の戦い」家康、数的不利どう逆転?茶々は阿茶局に激昂?
ヤフーニュースのこのタイトルを見て、阿茶局を調べていたら、偶然、「家康死去後も幕府を支えた阿茶局」というタイトルがあったので、訪問したのが国立公文書館の「徳川家康」でした。
さすがに、国立公文書館だけあって、徳川家康のことが、いろいろな角度から検証されていて、とてもためになる記事ばかりでした。
その中で、興味深かったのが、次の記事でした。
家康の出版事業
明治時代になるまでは、筆で書いた読み物だけ、というイメージでしたが、関ヶ原の戦いの1600年のすぐ後から、すでに、活版印刷の技術が導入されていたんですね!
16世紀末から17世紀にかけて、日本は活字印刷の時代を迎えます。
活字印刷の技術は、イエズス会の宣教師や朝鮮などからもたらされました。
家康は伏見城や江戸城、駿府城に収蔵した書籍の出版を積極的に進めました。
慶長4年(1599)から同11年(1606)にかけて、伏見において木活字(もくかつじ、木製の活字)を、元和元年(1615)から翌年にかけては銅活字(銅製の活字)を用いて、多数の書物を出版しました。
これらの出版物は伏見版・駿河版と呼ばれ、家康の文化事業を代表する一つです。
慶長10年(1605)3月、家康の愛読書としても有名な、伏見版の「新刊吾妻鏡」(あづまかがみ)が刊行されました。
この書の底本に用いられたのが小田原北条氏に伝来した「吾妻鏡」です。
北条氏旧蔵本は金沢文庫本を文亀・永正頃(1501~1521)に書写したものと言われています。
家康のこうした出版事業によって、これまで見ることが困難であった書籍の多くが、世間に流布することになったのです。
それまで秘蔵または秘伝とされていた学問や知識が、家康によって一般に公開・普及されることになりました。
https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/ieyasu/contents4_02/
当時刊行された書物、どれだけ現存しているのでしょうね。
「どうする家康」なども、こういう書物を出典としているのだと思いますが、活字印刷がこの時代からということは、驚きました。