西日本新聞社さんは本当にいつも良い記事、あり がとうございます>子を絶壁から投げ、手りゅう 弾で一家全滅…サイパン「非戦闘員」が見た戦争 と抑留

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「誰にも言えない思いをこのノートに託した。大切に読み継ぎたい」

どんなことをしても平和を守らなければいけないと思います。

それは日本だけではなく、世界中がです。

 

太平洋の常夏の島、サイパンは第2次世界大戦中の1944年、日米両軍の激し
い攻防の舞台となった。戦闘には関与しない役人や民間人も多く滞在。大分県日
田市で暮らした高瀬潔さん(1918〜2002)も巻き込まれて米軍に捕らわれ、1年7
カ月の抑留生活を送った。戦後すぐに高瀬さんがまとめた手記が遺品から見つか
り、戦後75年の今年、「あなたの特命取材班」に寄せられた。「非戦闘員」が見
た戦争や抑留が描かれていた。

【写真】びっしりと小さな文字でつづられた手記

 高瀬さんは日田市の工芸学校を卒業後、38年にパラオの南洋庁に入った。日本の委任統治領だった南洋諸島を治める同庁の土木課で技術職として勤務し、40年にサイパン支庁へ出向した。

 手記は高瀬さんが初めて間近で砲火に接した44年6月11日に始まる。戦況の悪化で女性や子どもは日本本土に避難。高瀬さんの家族もサイパンを離れたが、島には約2万人の日本人がいたという。13日の艦砲射撃で自宅は破壊され、上陸した米軍に日本軍は苦戦した。戦力差は明らかで「竹槍(やり)で自動小銃に太刀打ちできず」と記す。それでも高瀬さんは援軍を信じていた。
「最も凄惨を極めし日」

 「避難生活を通じて最も凄惨(せいさん)を極めし日」とつづった7月1日。身を潜めた壕(ごう)の周辺に艦砲を受け、外にいた多くが死傷した。無傷の自分に「運命は人の生命こそ正(まさ)に紙一重」。その後は海岸の崖下の岩穴に逃げ込むも、敵が迫る。子どもを絶壁から投げて後を追う人、手りゅう弾で一家全滅する人…。阿鼻(あび)叫喚を見た。7日に日本軍の組織的抵抗が終わった後も逃げ続け、米軍が投降を呼び掛けても「生ある限り敵に抗す」と誓った。

 8月に入ると同僚が撃たれて亡くなり、投降する人も増えて散り散りになった。衰弱と下痢がひどく、動くこともままならない。18日朝、高瀬さんは用を足す最中に8人の米兵に囲まれた。いざというときに抜けるよう置いていた刀に手が届かない。諦め、安堵(あんど)感、さまざまな感情が押し寄せる中、約70日間の避難は終わる。後に待つ長い抑留の日々は、この時点ではまったく想像ができなかった。

手づかみでの食事、衣服は破れ放題

 食器がなく手づかみでの食事。衣服は破れ放題。体は汚れ男女の見分けもつかないほど。「貧民窟どころか、言語に絶する不潔と皆無と虱(しらみ)との生活」。1944年8月、高瀬潔さんのサイパンでの抑留はどん底から始まった。当初は毎日数十人が亡くなった。1万人超が暮らすキャンプでは、早期に投降するなど日本への見切りが早かった人や、米兵にうまく取り入った人が幅を利かせていると感じたという。

 体調が回復してからは持ち前の技術を生かし、米海軍の指揮で建物の設計に携わる。徐々に生活にも慣れ、仲間内で夜に語らうと心が安らいだ。サイパンでの戦いに殉じた軍人、民間人を弔うキャンプ一角の木の墓標には草花が絶えず手向けられた。青空の下、生き残った教員らによる子どもたちへの授業も行われた。

 終戦の年、45年に入ると環境は徐々に改善していく。副食に肉類が増え、刺し身が出ることもあった。学校ができ、広場ではほぼ1日置きに米国映画を上映。上水道が引かれ、図書館や理髪店ができて運動会も催された。「うまき水も自由に飲め飢えを覚ゆることもなくなる」。敗戦間際の日本本土の暮らしとはだいぶ違っている。

 8月15日。米兵は終戦の知らせに歓喜した。祖国の敗戦は信じられなかった。「敵に捕らわれの身、人並みの喜怒哀楽の許されざるわれら、感情も特別動かず」。そう、自分に言い聞かせた。

 時間とともにキャンプの雰囲気も落ち着いていく。46年の元日、この1年の激変ぶりを感慨深げに振り返った。「隔世の感あり。考え方によりては、衣食住の保証されたる安慰(あんい)なる生活」

 ここで暮らし続けたい思いもよぎったが、引き揚げの命令が下された。抑留中に島で暮らしの基盤を築いた人たちには去りがたい感情もあったようだ。高瀬さんも「できうればこの地にとどまり、知るべなき他国に走りたき思い」と書いた。

 3月4日、最後の引き揚げ船に乗った。幾つもの思い出がよみがえる中「嗚呼(ああ)さらば!!サイパン永久に」と何度も心の中で叫んだ、とある。約2週間後の19日午後3時50分、満身創痍(そうい)で故郷の日田駅に到着。手記は「過ぎ来し波乱の幾春秋。万感迫りて呆然(ぼうぜん)自失」と締めくくった。

92ページの手記

 高瀬さんは帰国後、大分県の日田土木事務所に勤め、2002年4月に84歳で亡くなった。家族が遺品を整理中、書斎から1冊のノートを見つけた。「サイパン島想出の記」。帰国後の50年5月に書かれたこの手記は、92ページにわたりびっしりと小さな文字でつづられている。

 長女の慧子さん(80)=福岡市西区=はパラオで生まれ、疎開まで3年ほどサイパンで暮らした。一緒に慰霊でサイパンを訪れた際にも、当時を語ることはほとんどなかったといい、「父のこれほどの苦労は知らなかった。話すのも嫌だったのでしょう」と話す。

 戦史叢書(そうしょ)によると、サイパンでは日本兵約4万人、米兵約3400人に加え、日本から派遣の役人や民間人8千〜1万人も犠牲になったとされる。「悲惨を極めしどん底の生活より日を送るごとに向上の途をたどりし思い出を後日のため、ここに記すものなり」。手記の冒頭にこう記した高瀬さん。涙も喜びもあった。父の生きざまに触れた慧子さんは言う。「誰にも言えない思いをこのノートに託した。大切に読み継ぎたい」 (金沢皓介)

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