エプソンのプリンターが「インクで儲ける」仕組 みを自ら覆した理由

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一度確立したビジネスモデルを革新するようなアイデアを実現することは非常に難しい。しかしビジネスの環境が大きく変わる中、同じビジネスモデルが通用し続ける保証もない。どのようにビジネスモデルを進化させていくべきなのか。エプソンの事例から、そのヒントを学ぼう。(早稲田大学ビジネススクール教授 山田英夫)

 強固なビジネスモデルを持つ企業が、それを自ら崩すような事業に参入できるだろうか。これは、古くて新しい“永遠の課題”である。セイコーエプソン(以下エプソン)は、プリンター事業で強固な「ジレット・モデル」を構築してきた。本体のプリンターは廉価に販売し、消耗品であるインクカートリッジで儲けるモデルである。全色揃ったインクは5000円を超え、4回程買い替えれば、本体が買えてしまう。

 しかしエプソンは2016年、日本で2年分のインクが入った大容量インクタンクプリンターを発売した。同製品は、本体価格は高いがインクは2年に1度交換すればよいモデルであり、ジレット・モデルを真っ向から否定する商品であった。

 なぜエプソンは、長い時間をかけて確立してきたジレット・モデルを、自ら否定するような商品を出したのであろうか。

● インドネシアで ジレット・モデルが成立しなかったワケ

 エプソンは、海外でもプリンター事業を展開してきた。しかしなぜか、インドネシアでは、ずっと赤字が続いていた。インドネシアでは、日本の家庭用クラスのプリンターが、業務用として使われるケースが多かったが、エプソンが調査をすると、消耗品であるインクカートリッジが売れていないことが分かった。

 しかしどのプリンターも、しっかり稼働していた。なぜか。現地に、外付けタンクにインクを注入し、チューブを通してプリンター本体とつなぐ違法な改造業者がおり、消耗品が売れていなかったのである。

 競合のキヤノンであれば、改造業者を知的財産権侵害で訴えたかもしれないが、エプソンはそうしなかった(キヤノンは、強固な知財戦略を持つ会社として知られている)。

 エプソンは、インクを長く使いたいニーズがあるのであれば、自ら同じような機種を作ってしまおうと考えた。これが大容量インクタンク開発の契機であった。

 しかし大量のインクを内蔵したプリンターの開発は、技術的には容易ではなかった。

 第一に、大量のインクをためても、劣化や凝固しないインクにする必要があった。従来のインクカートリッジのインクは、しばらく使わないと詰まってしまうようなことも起きていた。

 第二に、タンクが満タンのときと少ないときでは圧力が異なり、それを同じ圧力で機械に送ることを可能にする必要があった。

 エプソンはこうした技術的課題をクリアし、大容量インクタンクプリンターは完成した。2010年のことであった。

 チューブでインクを送る改造業者の仕組みは時々事故を起こしていたが、エプソンの一体型では、そうした事故もなくなった。エプソンが大容量タイプを発売後、改造業者は駆逐され、エプソンの事業は徐々に正常化してきた。

 大容量タイプはインドネシアだけではなく、ほかの新興国でも販売された。2019年度には、新興国で販売するモデルの半分以上が、大容量タイプになった。

 さらに先進国でもうまくいくかを検討し始め、2カ国でテスト販売した後、2014年からは欧州、2015年から豪州、米国、カナダで発売した。

 大容量インクタンクプリンターは、2010年にインドネシアで発売して以来、順調に台数を伸ばし、世界での累計販売台数は2017年3月に2000万台、2018年7月に3000万台、2019年8月には4000万台を突破した。

● 日本でも大容量タイプを発売 国内で訴求した2つのポイント

 海外での大容量インクタンクプリンターの評判を聞いて、日本の消費者から「国内でも発売してほしい」という声が高まってきた。

 しかし日本ではジレット・モデルがきちんと成り立っており、消耗品でしっかり利益を上げてきた。互換インクカートリッジも登場していたが、純正カートリッジを脅かすほどではなかった。

 こうした中、エプソンは2016年2月に国内で大容量タイプのプリンター「エコタンク」シリーズを発売した。

 初代の大容量タイプは、本体は6万円弱と、従来機の3倍近くしたが、インク代は従来機の10分の1で済んだ。大量に印刷するユーザーにとっては、トータルコストが75%安くなるという経済性を持ったものであった。

エプソンはインドネシアでは、改造業者の外付けタンクのような故障がないことを訴求したが、国内では

 (1)大量印刷ユーザーの印刷コストの削減
(2)インク交換の手間の軽減

 を打ち出した。

 エプソンには、大容量インクタンク型の発売によって、従来レーザープリンターが押さえていた大量印刷をするユーザーに、インクジェット型に乗り換えてもらう目的もあった。

 実はプリンターの世界では、「インクジェットに強いエプソン vs. レーザーに強いキヤノン」という図式があった。エプソンは大容量タイプ発売を機に、キヤノンのレーザーの牙城を切り崩しに行ったのだ。インクジェット方式は、熱を使わないため消費電力が低く、さらに保守・メンテナンスの人員もレーザー方式より少なくてすむという利点があった。

 また(2)に関しては、従来のインクカートリッジでは、例えば年賀状を印刷している間にインクが空になり、「インクがなくなりました」の表示が出ることも少なくなかった。大量に印刷するとき、急いで印刷しなくてはならないときに「インクがなくなりました」の表示が出ることは、ユーザーにとってストレスの元であった(「マーフィーの法則」のように、インクが切れるのは、急いでいるときや大切な印刷の途中が多いようである)。

 大容量タイプを買えば、「インクがなくなりました」の表示は、2年に1度しか出ない計算となり、そのストレスは大幅に減る。

 その後しばらくして、キヤノンが「GIGA TANK」シリーズ、ブラザー工業が「ファーストタンク」シリーズで、大容量タイプに追随した。

● カニバリゼーションを 解決するアイデアとは?

 一方で大容量タイプのプリンターには一つ問題がある。それは、エプソンの従来のジレット・モデルを壊してしまうモデルであるということだ。エプソンは、単なる製品のカニバリゼーションではなく、「ビジネスモデルのカニバリゼーション」という問題に直面した。

 それではエプソンは、どのようにしてカニバリゼーションの問題を乗り越えたのであろうか。

 それは意外と簡単な方法だった。従来タイプと同じ事業部で生産、販売したのである。すなわち、事業部長やメンバーにとって「どちらが売れても、売り上げ・利益が増えるならよい」と割り切ることによって、市場の動きに任せたのであった。「お金の入り方が違うだけ」「ユーザーに選択肢を提供しよう」というコンセンサスの下、営業は新たな武器を持つことになった。

 本業を否定するようなビジネスモデルは、本体と隔離して、子会社や別事業部で行うというのがそれまでの常識であった。しかし、本業も合わせて会社のビジネスモデルを進化させていくためには、敢えて本体と一体で運営する方が有効なのかもしれない。

さらに2019年には、当初発売した大容量タイプではインク量が多すぎて使い切れないかもしれないという不安を持つ家庭ユーザーを対象に、インク容量を少なくしたプリンターを発売した。

 エプソンの調査では初代の大容量タイプへの不満として、「本体価格が高い」「1年分のインクは不要」という意見が3割ほどあったという。本体価格を2万〜3万円とし、従来の大容量タイプから2〜3万円安く設定した。またインク容量も従来の5分の1にした。

 この結果、2019年度の全世界の大容量タイプの販売台数は、インクジェットプリンターの約64%を占めるまでになった。

 大容量タイプは、SOHOや印刷枚数の多いユーザーを中心に普及し、これまでのビジネスモデルも変えようとしている。従来は、本体は安く販売し、消耗品のインクカートリッジで利益を上げてきたが、大容量タイプでは、本体の販売だけも十分な利益が出る。また純正インクの容量当たり単価も安いため、わざわざ互換インクを購入しなくても、ユーザーはエプソンの純正インクを購入する可能性が高い。その結果、プリンター本体とインクの両方から利益を上げられるモデルになった。

 大容量タイプによって、本体と消耗品の双方で利益を上げる、いわば“万年筆&カートリッジ”型のビジネスモデルを開発したのである。

● さらなるビジネスモデルの進化 インクの自動配送プランも

 ジレット・モデルに続いて、“万年筆&カートリッジ”型のビジネスモデルを開発してきたエプソンであるが、さらに新しいビジネスモデルにも挑戦している。

 2014年からは、オフィス向けに複合機の本体を無料にし、保守費を定額にした「エプソン・スマートチャージ」を始めた。これによってオフィスでは、初期投資なしに複合機を使えるようになり、レーザー方式では印刷枚数(メーターチャージ)に応じて払っていた保守料金が定額になり、導入の敷居が一気に下がった。

 さらに2020年には、製品やサービスを定額で利用できるサブスクリプション型サービス「Ready Print」を個人向けのインクジェットプリンターに導入した。これは月の印刷量に応じて6種類の料金プランがあり、インクの残量が少なくなると、インクボトルが自動配送される仕組みである。

 「Ready Print」は欧州から始め、ほかの先進国に広げる予定である。これによって、法人向けも、個人向けもサブスクリプション型を展開するようになったのである。

 過去、ビジネスの教科書に書かれてきた『プリンターはジレット・モデル』という常識は、今や激変しつつあるのである。

山田英夫

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